Hands -EPISODE1 03-



 遠くに、闇が見えた。そして、その奥にはまた光が見えた。不気味に燃ゆる、ろうそくの火。
 俺はその火に導かれるように近づいた。顔を近づけるとその小さな火は、瞬く間に燃え上がる炎になった。一瞬見えた、ろうそくの向こう。見えたのは真っ黒な肌をした見たことも無い男だった。そいつは、だらしなく髪をたらし、口元からは赤い血を流している。そして、背中には青い翼を生やし、その所々にまた血がついている。他にもだらりと力なく下ろしている両手に、服に、足元に……いろいろな所に血がまとわりついている。
 数センチ浮いたそいつは、闇の奥から吹く風に、髪をなびかせている。一瞬冷たい汗が背を這った。
 男の髪を揺らす風が俺を通り抜けた。俺のブロンドの長い髪は、さらさらと風に身を任せた。
 俺は、しばらくそいつから、目をそらす事はできなかった。


 誰か、誰かいないのか? この俺を…殺してくれる奴は居ないのか?
 頼む……誰か、誰か俺を殺してくれ…

 誰か…



「美奈……だと思います、多分」
「多分、ねぇ。ま、いいんじゃね? 彼女もそういってることですし。じゃ、苗字は適当に……俺のにでもしとけばいいんじゃないですか?」
 美奈は、何処の誰かもわからない、といっている。ただ唯一手がかりになるのは、美奈の喉にある傷痕だけだ。病院の方では、何か調べているようだったが。
 とりあえず、”美奈”は俺の家に来ることになった。まぁ、身元がわからないと聞いた時点でそうなるとは読んでいたが。
 俺の隣を歩く美奈は、あの時と同じ白いワンピース。病院で、あのあと洗ったのだろう。泥の痕は見当たらない。そうすると、余計に彼女が眩しく見える。
「あったんです、本当は。」
「え?」
 突然彼女が口を開く。俺は思わず彼女をまじまじと見てしまう。今までずっと、聞かれないと答えないタイプだと思っていたのに……と。
「名前です。でも……なんだかわからなくて。頭あの中に、本当の名前はあるんです。確かに。思い出そうとすると、まるで指の間から漏れていく砂みたいになっちゃって。つかめないんです。急にそんな風になって……それが事故の前です。」
「じゃあ、『美奈』ってぇーのは?」
「それは……これです。」
 彼女が差し出したのは、一枚の紙切れ。くしゃくしゃになったそれの真中には”美奈”と薄く書いてある。これ、どこかで見た気がする。俺はポケットにある髪を出してみた。美奈は自分のそれと、俺のとを見比べている。
「あなたも……コレを……。いったい、これって!」
「わかんねぇ、ま、とりあえず家にこいよ。外は暑いからさ。」
 家に入るとすぐ俺はクーラーをつける。幸い、ここしばらくこの家に滞在していなかったから、部屋は比較的片付いている。
 やっと涼しくなってきたところで、俺は我慢していたタバコを吹かす。美奈は、近くに転がっていた本に目を通している。
 俺はそのとき、初めて彼女の顔を見た気がした。色白な肌に、少し茶色がかった髪。綺麗に整った顔立ちが、なぜか懐かしく、いとおしく感じた。
 しばらく彼女を見ていると、美奈は小さな寝息を立てて寝てしまった。そんな彼女を起こさないようにそっと、ベッドに運ぶ俺は、なんだか別人のように思えた。
 涼しくなった夕方、夕焼けが綺麗に空に映える。その赤い光は、俺の部屋にも入り込み、色白な美奈の顔も染める。美奈はまだ寝ていた。寝返りさえつかず、ずっと眠っていた。昨日は疲れたのだろう、昨日の今日でそんな簡単に疲れが取れるとは取れるとは思わない。俺は近くのコンビにで、適当に弁当を買い、部屋に置手紙を残して実家に戻った。



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